美味しそうな料理の写真と家庭的無罪
ここに1枚のすごく上手な料理の写真があります。
これがSNSにアップロードされたとします。
相手が男性なら
「料理上手だね」「美味しそう」とコメントする人がほとんどです。
相手が女性だと、
「家庭的だね」が混ざることがあります。
小さい頃、家庭の形や役割分担なんて様々なのにそれに「的」がついて誉め言葉になるのはなぜ?…とよくわからなかった概念でした。
ちなみに、この写真の主は…男性です。
日本でも大人気のイギリス人シェフ、Jamie Oliverさんのもの。
彼のインスタグラムのお料理はとても魅力的なのでおすすめです。
あとNigella Lawsonさんのインスタグラムも素敵なのでおすすめ。
彼女のレシピは「こってり禁断レシピ」感が素晴らしい。
話を元に戻すと、
家事が得意な女性を「家庭的」と称する言葉が誉め言葉である限り、
きっと男女のお給料の格差って埋まらないし、専業主婦の徒労感も減らない気がするんです。
日本の女性は家事をやり過ぎ説
日本の女性は勝手に高く家事の水準を設けていて己の首を絞めているという意見が近頃ちらほら出ています。「手抜きすれば」「お金使って外注すれば」という言葉が添えられがち。
でも待って。家族に健康でいてもらいたい、喜んでもらいたいという愛情から出た行為にその言い方はないんじゃないかな?と思います。
何より「家庭的(=家事を頑張る)」であることは「それらを達成するのに効果的で良いこと」と、多くの日本女性は成長過程で教えられます。
記事では、問題は女性の側だけじゃなくて家庭内で分担できていないことや、市販品や外食で済ます選択肢が限られていることに触れているのに、あまりに「過剰品質」的に断じる言葉が多く、胸が痛みました。
ですので、「家庭的」を褒め言葉にすることと、家事の水準を適正な範囲に留めることが、どうリンクしているか?に触れようと思いました。
「家庭的」を誉め言葉にすると「家庭的無罪」も生まれる
家事を完璧にこなすには、どんなにIT化しても多大なる労力と時間を要します。
終わりと成果ポイントを決めないと、永遠に終わりません。
「家庭的」という言い回しを、誉め言葉のニュアンスで使い、その行為を賞賛すると、先の「過剰品質」を暗に求めることに近づきます。
それは、
「家庭的=家事に労力と時間を割くこと」の引き換えにその他を失っている状況への推奨をはらんでいるから。
私はこれを「家庭的無罪」と呼んでいます。
- 学生の本分として、勉強をすること。
- 社会人として、仕事で責任を果たすこと。
- 定期的に運動をすること。
- 食事に気をつけること。
- スポーツや芸術など趣味を楽しむこと。
- 友達や家族との時間を持つこと。
いろんな役割を持っているのが人間で、これらは人生の選択や過程で生まれる基本的な項目です。
でも、家事に労力割いたら、できる範囲は限られてしまう。
人には様々な役割があるけど意志力には限界がある
5年くらい前にこういう本が流行りました。
書いてあることはとてもシンプルで、
その人が一日に使える「意志力」には限度があって、
それをどう効率的に物事を達成したり習慣を変えるために使うか?
にフォーカスを当てて頑張る重要性を説いています。
これを思い出して、ハッとなったのは、
「家庭的とされる好ましい状態」を保つのに意志力を使っていたら、そりゃ他のことには回せないよな…という納得感と、
何より、それを女性が「家庭的」という言葉で求められるのは、
家事をやっていれば他のことができなくてもOKで「期待されていない」ということの裏返し
だと気づきました。
だから「家庭的無罪」と名付けています。
できなくてもいいよ、家事をしてくれてれば。
それ以外は求めてないし、お金払わなくていいよね。
という状況です。
これでは、専業主婦も徒労感があるし、女性がどんなに仕事を頑張ってもどうせ女性だし家庭の方が優先で片手間でしょ?のまま。お給料にも反映されにくくて当然です。
もし、男女関係なく、全員に様々な役割があることが大前提だったら、
仕事など家庭の外での役割の責任も重くなるので、家事分担や仕事との両立はもっと進んで然りだなと思います。
「家庭的」の定義はいつから?
私が小さい頃ピンとこなかったのは「家庭的」の定義です。
料理や掃除や育児などができることを指すと知った時、
家庭での女性の役割って料理・掃除・育児だけ?他の役割もあったよね?となるような環境で育ったことも大きいです。
私の母は料理が上手ですが掃除は苦手です。
祖母は家事全般苦手でしたが、元官僚で仕事は得意でした。大学教授の妻として学生さんや先生方など人の出入りの多い家で、テキパキと対応していました。
母に料理を教えた曾祖母は、料理もお稽古もプロ級ですが、ごく親しい家族にたまにしか作らず、基本的にお手伝いさんやお料理人さんに指示を出してお客様に失礼のないよう応対をしていました。
戦前&戦後の奥様だった祖母と曾祖母に共通していたのは、「家庭」の役割の中に「切り盛り」が入っていたということです。
うちは、父方の家も母方の家も自営業や武家が長かったので、「女中さんや料理人さんや番頭さんを仕切る」とか、「店番に立つ」とか、「生産物を商品へと加工する」とか、何かしらの役割を持っていたという認識が強いです。
江戸時代まで、普通に女性も商売の戦力となっていた名残を残す環境でした。
「家庭的」の定義の根幹は、明治時代以降に教育に組み込まれた儒教思想の元、
サラリーマン×専業主婦世帯が増えた高度経済成長期以降に固まった、
割と新しい常識なのかなと、大人になった今では思っています。
素直に「料理美味しそうだね!」でいい
以上つらつらと書きましたが、
もはや、家庭的という価値観の根幹が変わりつつある中で、その言葉を誰かに投げかける必要もないかな?と感じています。
男性に対しても女性に対しても、美味しそうな料理には、素直に「料理上手だね!」「美味しそうだね!」と伝え続けたいと思います。
ワンパターンの「家庭」の価値観を無理にあてはめるのは、相手の生活習慣に踏み込むみたいでつらいので、この多様な社会では避けたいとも思います。
あと、「家庭的だね」という言葉を、「お前の料理の盛り付け、素人然としてインスタ映えしない」という遠まわしな揶揄表現として使う方もいますが、「それだったら何も言わずそっとしておきなさいな」事案ですのでここでは触れていません。
ちなみに、この時期、番組改編が行われる度に、がっかりするのが、TBS「噂の!東京マガジン」がなくならないことです。
若い女の子の料理だけdisる「平成の常識・やって!Try」コーナーが、
- 一人暮らしを始めたばかりの男子大学生/社会人の破天荒ROCK料理
- 定年後、恐る恐る包丁を握ったお父さんの珍料理フルコース
などにも一緒に笑えるようになればいいのにね、と思っています。
そこまできて、ようやくワンパターンの「家庭的」の呪縛から、色んな人が解放されるんじゃないでしょうか。